2005年 7月〜12月
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12月31日(土)
今年の出来事を 書き直したり追加しています。よろしくどうぞ。


仕事納め:12月28日の午前中で今年の仕事が終わる。と言っても急患の患者さんは私が家にいるときは診るようになる。20年を過ぎ 今年はいい勉強をした一年でもあった。また自分の健康が多くの人に迷惑をかけないように努めた気もする。夜,様々な会合に出かけないことが 一番。昔、事務局として所属した会も 気になるが致し方ない。中心になって動くことは 限度があり仕事が優先とと戒めなければならない。ただトンボ公園の維持発展に努めたい。そしてその仲間といい汗を流したい。家内の母への看病も1面では 私が無事仕事が出来るようにとの配慮でもある。仕事により地域への貢献が私の仕事でもある。深谷市 鴻巣市 熊谷市からも患者さんがいらっしゃるが そこには医療は平等であり枠組みなどない。


趣味:今年はなんと言っても釣りを始めたことだ。川釣り、バス、トラウト、管理釣り場
、野反湖
榛名湖そしてヘラブナ釣りと手をだした。一日中どっぷりということは出来なかったが今年
前半はいろいろな場所に家内を連れ出かけた。8月からは独りで円良田湖、間瀬湖
 水沼 江南、滑川の野池にも出かけた。来年は冬はフライでのトラウト釣り 春からはヘラブナに絞り技を磨きたい。しかし渓流、海と夢は広がる。行き着く先は 高知永住か。


母の病:突然と起きたことで混乱し動揺した。目の前にいつも健康でいた母が何故こんな風になったのかという衝撃で 大きくうろたえた。旅先での連絡、ましてこの旅を後悔しつつの旅だったので悔しい思いも大きかった。(ただ先日モンゴルに一緒に行き本当にお世話になった嶋村さんに偶然会い 心が温まった。ドーギー達も元気だろうか?彼らは本当に素晴らしかった。ちょと とっぽいそして細やかな気持ちを持ったドーギーの兄貴も懐かしい。気が合ったなあ。)
年末にかけて母の風邪も治り 母はリハビリに頑張っている。年末そして年始と子供達とともに静かに過す予定。



ホトケさん:今年のご活躍は素晴らしかった。先ほどホトケさんのHPでホトケさんの1年を振り返ってのコラムを読んだ。「HISTORY of Blues」の成功は本当に良かった。独りで企画を持ち上げ交渉しそしてプロデュースした2日間。素晴らしかった。30年間ホトケさんのファンでありホトケさんの音楽に 足を運び、聞き続けたが 素晴らしい1年だった。そして日本中のライブ活動もしっかり根ざされ 来年も益々活躍されることを 祈りたい。来年も語り合いたい。
新しいバンド「The Blues Power」観にいかなければ。
GO>GO>やな。
五郎ちゃんに 今年はお会いしていないのが淋しかったけど来年1月のホトケさんとのJIROKICHIセッションに行く予定。


永島慎二先生逝去:暮れに掛け本を整理している。もっとも読み込んだ本は永島先生の本だ。真っ黒にもなっている。「フーテン」「若者達」「黄色い涙」「お弁当箱1,2,3,4」
「花いちもんめ」「その場しのぎの犯罪」・・・透析を数年うけていらっしゃったがお元気だと思っていた。油絵に打ち込み最近は作品を発表なされていなかったが「旅人君」はいつも構想にあったのではないかと思う。ご冥福を祈ります。
私がユニークな歯科医師になれたのも先生の作品のおかげです。


高田渡氏逝去:Bluesを知る前 私は友部正人氏 高田渡氏 加川良さんが大好きだった。
高校時代ラジオから流れた良さんの「下宿屋」には 乾いたギターの音とその歌詞が好きだった。渡さんを吉祥寺の「ぐぁらん堂」で何回も見かけ何回もライブを聴き林亭、林ひろしさんGwanさんたちの酔っ払った姿を見つめていた。決してその輪の中に入ろうとしたわけでもなく 遠くからshibaと見ているだけで充分だった。そしてShibaと語り合うことが何よりも極上の時間であり また二人で黄色い涙を流していた。決して親不孝をしようなどと思わないのに 方向だけは親から離れていってしまった。shibaも葛藤が大変だったと思う。青林堂の長井さんも見かけていたが 宇野重吉さんだと思っていたなあ。渡さんの晩年の作品は本当にいい。
「夕暮れ」堪らない。


LOVE BONE:今年は余り活動できなかった。しかしメンバーのタッチャンイッちゃんの気持ちは暖かく嬉しかった。こういうときもあるということ。毎日音楽は聴いているし この曲バンドで
今度唄いたいな、このリズムで日本語を載せオリジナルを作りたいなと 思う日々でもある。
3月 11月の2回の演奏は 肩の力が抜け 好評を得た。来年は回数はそんなに増えないけど
ぼちぼちやって行きます。


プロデュース:今年はホトケさんを2回のプロデュースをした。もう幾つか予定があったのだが 天候や母の病気のため中止になった。今年はその2回とも友達のバンドを呼び共演してもらったのだが 観客動員に彼らが(と言っても浩ちゃんが四方八方走り回り努力してくれたのだが)頑張ってくれ幅が広がったのがとても良かった。またツアーとして高崎の「デュ・フォレー」で出来たのが良かった。このコラムでも書いたがとても良い一日だった。これの成功も古い友達の
池田君の活躍に尽きる。感謝!!
1989年からこちらで色々プロデュースを始めたわけだが その頃は「ホンキートンク」だけだった。まあちゃんとは連絡もしなくなってしまったが ホンキートンクの今年の頑張りは凄かった。
木村さん、勘太郎さん 上田正樹さん 房さん なぎらさん 中山ラビさんとまあちゃんの好きなミュージシャンを呼んでいて何よりだ。身体に気をつけて頑張って欲しい。
来年は再びお世話になり 何か出来ればと考えている。音響照明等この地域では とにかく抜群だからだ。五郎ちゃんもホンキーで叩きたいと念願しているもの。
熊谷の「葡萄館」の移転もあった。少し状況が変わり私は足が遠くなってしまった。熊谷は私の高校時代の地であり原点でもある。岡田さんチャンさんともども今後もしぶとく活躍されるはず
だ。
トンボ公園音楽祭、今年も多くの方々の申し込みがあり 天候のため中止になってしまったのも返す返す残念。来年は天気が安定をする9月の第3週の日曜日に決まっている。トンボ公園の仲間と続けて行きたい。ただ若手の成田君の転勤が決まり進んで汗を流す男ゆえ残念だ。



12月23日(金)
4日間連続の仕事が終わった。最後は青色吐息。脳が疲れたのが良く分かった。
木曜日を休診にしているため そのリズムが崩れると甚だ疲れる。無事スタッフに
ボーナスが出せた。


倫理の欠如:生き方と言う視点に捕らわれると 難しくなる。まず仕事での倫理を考えると具体的に分かりやすくなる。目に見えないところに きちんと仕事をしているかということだ。
スタッフへの挨拶から仕事は 始まる。そして準備をきちんとして朝礼をする。昨日の反省
今日の仕事の打ち合わせをする。これは毎日。事故が起きない為にも必要。そして患者さんへの挨拶から大きな流れとともに仕事が動く。他の歯科医院で治療を受けた患者さんを診る
時、前任者が誠意を持って仕事にあたったかが良く分かる。レントゲンだけでも分かる。
歯科の場合 患者さんは全てを任せて治療を受けている。その結果がレントゲン、補綴物、
義歯に如実に現れている。現実に噛めない、痛いという症状で来ているのだから 説明をし
治療が始まる。ここで 保険点数が下がっているからここまでなどとは当然考えない。より良い結果を求めるため 全力投球をする。それの毎日の積みかさねが『信』を得る。
他の職業の人も同じ。あそこに任せればきちんとする。私の家も3年掛かって建ったが 鉄筋がむき出しになっている。これは非常に難しい仕事だとその関係の患者さんに言われた。
外から構造が見えるからで 手を抜けないのだそうだ。車関係でも部品がきちんと出来上がっていないととんでもない車になる。安全と身を任せて乗っているのだから。そのチェック機能は日本は厳しいだろう。それが全て怠ったのが 今の耐震構造ごまかしの事件だ。


子供達:三つ子の魂百まで。これにつきる感がする。しかし成長するにつれ子供の世界との戦いでもある。敏感に察して本音で 話すことを粘り強くやるしかない。背丈以上のものでもないし 自分が嫌う性格も引き継いでいる。自分の鏡みたいなものでもある。ナルシストの親だと
子供も呼吸が出来ない。




12月22日(木)
乾燥しているので 寒さが顔に突き刺すようだ。夜半起きているが予想の雨、雪は降っていない。数年前にも このような寒さを感じたことを思い出す。
バリアフリーの準備とともに自分の部屋の乱雑な本、CDを整理し出した。
20年間集めたものだが CDはともかく本は読んだと言う記憶がない。買って積んでおいたと
いうことなのだろう。これから じっくり読めるということでもないが・・・。


年末だ。仕事も忙しくなった。この数日間で訪れる急患の患者さんが出てきた。来年にまたがっての治療になる。スタッフも子供の風邪を含め 体調を崩している。一人気を吐いている気がする。何もなければいいのだが。


家内が楽しみにしていたクリスマスの食材(川越のお店)の注文が届いていなくて
 クリスマスの食べ物が 今年は食べれなくなってしまった。母の病院を訪れた後 二人で静かに飲むことにする。


今年はクリスマス年末にかけて まったく音楽活動はない。それはそれで気が楽だが少し淋しい。JIROKICHIでLEOさんが伸ちゃん、小堀さんと24日ライブをする。行きたいなあ。


Blogに詩を載せることにしました。まず手書きで 書いてからになるので相当ゆっくりのペースになります。


12月13日(水)
母のお見舞い 本当に感謝します。
多くの方にお見舞いのお礼がてら 報告の手紙を出した。病状報告なのだが 疲れてしまった。快気祝いとは程遠いゆえ。



12月13日(火)
秘すれば 花 小津監督が愛した言葉だそうだ。
私の部屋の カレンダーがふと気が付くと8月から捲られていない。玄関のカレンダーも8月で
止まっている。


歯周病は病院を間違えると とんでもない結果になる。一歯科医としての実感だ。後半の仕事は 今まで診た患者さんのフォローと新しい患者さんをどれだけ診ていけるかだ。
私とお付き合いをしている患者さんが「最初は軟らかいものしか食べれなかったけど 今は
今井屋のカツ丼が食べれます」と話された。リアルでいい。


ホトケさんに出会い私は幸せだ。始めは手紙のやりとりをしていたが 今はメールでいろいろなことを語り合ったり相談したりする。私の家に泊まっていただくのだが 最高のお客様だ。
母もホトケさんに会うのが楽しみにしている。


永島慎二先生が今年お亡くなりになりこれからの作品に思いを寄せた人の落胆も大きいだろう。先生の奥様から遺品として多くの物を頂いた。最近は先生の本棚にあった蔵書を頂いた。
百合子さん(奥様)は 多くの先生の趣味として集められたものを 縁のある人に送られている。ご家族の皆様と明るく元気に過されていることが 何よりいい。私の中の旅人君は 今は小休止で 佇んでいる。



ふるさと崩壊そんな気がしてしまう。私が 釣りをしているのも幼い頃のこの町の原野を噛み締めていることもある。円良田湖にこんなに通うとは 思いもつかなかった。春の円良田湖が
待ち遠しい。荒川には本当にお世話になった。




12月11日(日)
数日前から「小津作品」を観始めた。静かに心に沁み込む。「麦秋」晩春」・・そして「東京物語」と観ているうちに 心の中がざわめき 切なさが宙に浮かび居た堪れなくなり 電源を切ってしまった。東京物語・・・んん。家族 私にとって今は本当に辛い日々だ。孤独だ。家内も。


母の授かった障害は10種類以上ある。言語障害、運動機能障害、認識障害、半側空間無視障害、立体覚の障害、注意障害 感情障害 半側身体失認 記憶障害などなど

母は半分しか見えない。右側麻痺側には 全く興味を示さない。
昨日は食堂で 声を立てて泣いた。歯ブラシを手伝っている時 水が飛んだら声を上げて泣いた。幼児のようである。しかし脳が壊れてしまったのだから 仕方がない。一生懸命なだめるしかない。
多くの方に「具合はどうですか?」と聞かれる。何ともいいようがない。来年の秋には 再来年の秋には少しずつ良くなるペースゆえ 今はそっとそっと見守って欲しい。



12月2日(金)
昨日から師走。今年はクリスマスも年末も今までとは違う過し方になる。
自分に対する「怒り」仕事に対する「ふがいなさに対する怒り」がふつふつと湧いてきた。
マイナス方面ばかり考えてしまうと 碌なことはない。今年1年は最悪な経営状態だった。
1月2月3月と「鬱」の軽いものが襲ってきて 四苦八苦だった。春は何故か良く思い出せない。そして夏からは 母の病気との生活だ。スタッフにも 細やかな指導をすることが めんどくさくなったり いやスタッフに希望を与えられなかった。それは 自分自身が希望がなくなってしまったように思い込んだ結果だった。希望は一日一日の過し方にある。手を抜けない仕事ゆえ
全力をつぎ込むが 結果が良かったのかどうなのか患者さんしかわからない。何を患者さんに与えることが出来るか。口腔衛生の向上とより良く噛める喜びだと思う。
定期健診も定着してきたが 町全体が活き活きとしていないことも 健康に大きく影響する。この仕事はとにもかくにも地元の人たちに対する医療だからだ。


我町寄居町は どう進むのだろうか。自転車で動き回ると とにかく多くのお店が閉店している
唯一元気に駅前の焼き鳥やさんがあるが
 開店休業のようなお店も多い。後継者がいないことが 大きいがこれだけ大型店舗が進出してくると 策なくお手上げの気持ちになるのだろうか。従兄弟のお豆腐やさんも大手のスーパーに下ろしているが 隣で30円の品が並び競争していては 大変だ。出来合いしか作らない主婦にとって 鍋物にはとにかく豆腐の風味だけでいいのだそうだ。その食品にどんな合成材が入っているのも構わずだ。
とにかく大谷豆腐に鍋、ボールを持って買いに来て欲しい。瑞々しい味 歯ごたえに感動するから。
歯科医も含め職人が集まった路地を作り 飲食店も昔の寄居を彷彿するような通りに集まるのも 方法かな。
深谷は1月1日から新生深谷市となりますという横断幕が掲げられた。複雑な思いだ。
今、水泳に深谷のパティオに通っている。サービス接客態度は垢抜けていて すぐ飽きてしまう水泳が週3回も通っている。このサービスは 気持ちのいいものだ。 






11月24日(木)
昨日は 中里フィッシング 今日は円良田湖に行ってきたが 今日の寒さといったら酷いもので ほうほうのていで逃げ出してきた。昨日は 久しぶりのトラウトを3時間で10匹くらい釣り上げ気分も良かったのに。ドナルドソンよいう大きな鱒も釣り上げた。すべてスプーンで。

いやはや今日の円良田は命がけだった。下準備はするのだが、当日になるとばたばた出かけてしまうヘラブナ釣り。今日は
仕掛けも5種類作り餌も準備万端。しかしまた、愛用の釣り台の万力の支え木を忘れてしまった。
何か必ず忘れる。それも致命傷みたいになってしまうものを。さてこの時期円良田湖は桟橋にしかは入れなくなり(わかさぎ釣りのため)しかし私はこの桟橋が苦手だ。
桟橋は直に座ると腰が冷え 腰痛が起きるので私にとって釣り台を用意する。それゆえ余計に揺れるのである。

まして愛用の釣り台を忘れてしまったので もう一つの大き目の釣り台を降ろしそれを桟橋の上で作った。釣り台には皆さん腰をかけて座るのだが 私は足がつくように改造してるのだ。どうでもいいが・・。その時北風がぴゅうぴゅう吹き桟橋は揺れるし 嫌な予感がしてきた。この釣り台に座るまでの準備が大変。人が通る度に 桟橋は揺れるし気落ちがしてきた。よっこらしょとようやく座る。しかし高さが高いためか舟に乗っているようだ。思わず前に飛び込んでしまう気分になる。嫌だあなあ・・・・。
ま、「とにかく一枚を」と 気を取り直し 今日はグルテンの餌を作り上針にはわたグルテン下針にはグルテン21を付け開始。
一投目。浮きが朝陽と水面の漣で見えにくい。それに釣り台で高くなっているため 不安定な気分が増してきた。小物が取りずらい。また新しいジャージは暖かいのだが 背中がはだけて来て 寒風に腰がもろに当たってきた。もう釣りどころではない。急いで用意した新聞紙を腰に撒きまた餌付けやら いろいろやる度にずれて来る始末。ハンチングで首は冷えるし足は揺れるたびに突っ張るし上体は固くなってきてしまい 何だか血圧が上がってきてしまった。あああ
明日の新聞に円良田湖で釣り人死亡なんて記事になってしまうのかと思ったリしたから余計気分が悪くなる。時折北風の突風が吹く。浮きは見えにくい。
かろうじて1枚を釣り上げその顔をじっくり拝みリリース。1時間半の釣りだったが6時間いたような疲れが出てしまい家に戻り風呂に入って 寝てしまった次第。もう桟橋は止めよう。
岡釣りの出来る春をこの湖では 待とう。

11月23日(水)
昨日は成田君と大谷君と痛飲。いや一人で酔っ払ってしまった。ここ最近嫌なことがあり私が呼んで来てもらったのだが わいわいと楽しい時間だった。
成田君今度の土曜日ホンキートンクで中山ラビさんのオープニングアクトをする。小学校の同窓会なので私は行けないのが残念。どなたか行ける方は行ってください。ラビさんそれにしても懐かしい人だ。LPを何枚か持っている。それに最近CDも購入した。なんか丸い感じの身体を思ってしまう。声は鼻に掛かり好きな声だ。


11月20日(日)
夢野カブとてもいい。以前買ってあったCDを引っ張り出し聴いている。詞がとてもいいし
バンドの音もごきげんだ。彼は今もJIROKICHIに出演している。
このCDを聞きながら仕事を終え 母の元へ駆けつける。この数日の月の光に驚きながら。


悲しみを 押し殺し 母の風船のように膨れ上がった手を 揉む
器用だった右手は 何も動かない
一人で母の世話をする時間はとても静かだ
声を失った母の意思は 頷きだけだ
食堂で大勢の患者さんと食事をする
母は隣りの人に 愛想の笑顔を投げかける
声も言葉にならない声で 何か言っている


何故こんなことに と ふと思う 思う気持ちを 腹にしまう
あの朝 私が居たらと その気持ちを 飲み込む
仕方がないこと 諦めること 


こんな母との時間を神様は与えたのか
静かな夜だ



11月16日(水)
遠くに住む友が 私の日記を楽しみにしている。ま、書ける時には書くし電話もたまには下さい。さて近況は、水泳も始めたし ヘラブナ釣りにも精を出している。元気だよ。ただヘラは腰が痛くなる。何とか釣り台を工夫し腰に負担がかからないようにしたいな。繊細な浮きと仕掛けに魅了されつつある。あの引きはたまらない。大崎紀夫さんのような旅をしたいと思っている。
この間は円良田湖での釣りは悲しい釣果だった。隣の人が余りにも釣り上げるので餌は何ですかと聞いたらグルテンだった。私はとろろを使っていてそれは夏までですと言われてしまった。バラケと食いつきハリスの長さ微妙だとわかってきた。満開の桜の下で釣るのが待ち遠しい。嵐山、志賀の沼での釣りは 隣の二人組が高麗の話を夢中になりしていた。私ものんびりと耳を傾けた。面白い世界がある。


最近は映画は ほとんど観ていない。時間がないということもあるが 集中力がないからだろう。趣味はまた必ず復活する。巡り巡ってまた出会える。そう思う。


先日のホトケさんとのミニツアーは 堪能した。細かい動きが出来ないので 友達に多大な協力をしてもらい 満足なツアーをホトケさんに贈ることが出来た。そしてお客さんにも。
初日の寄居でのライブは満杯。ホトケさんも新しいギターを引っさげて快心な演奏をしてくれた。我々LOVE BONEも久しぶりに演奏し気持ちの良いドライブ感があった。20年も一緒にいる後輩が 我々の音に興奮してくれた。そんなもんだな。力が抜けていたからか・・。その晩 我が家でホトケさんと色々話をしまた「古い相撲」のDVDを観た
翌日は母の手入れをしている庭を二人でのんびりと散歩した。盆栽の話やらホトケさんとの話題は幅広い。ムッシュの話もとても素敵だった。

お昼ごろ高崎に向け出発した。途中でいろいろお世話になる友達と合流し高崎のDeForeに
入った。ホリケンさんというBlues Manが作ったお店だ。1周年になると聞きいいライブが出来たらいいなと願った。友達が細かい気遣いで楽屋まで用意してくれ それが知り合いのお店だったのだが ママの料理、美貌に感動してしまった。ホリケンさんも高崎一いい女だと言っていたが 気風もよく上州の女の人だった。俺は ホリケンさんのバンドでゲストで歌うので先に名残惜しくお店を出た。ホトケさんを見たらニコニコ顔で・・。お店についたら満杯のお客さんだった。50人以上だ。ホリケンさんのバンドはvo,gはホリケンさん、gは浅見さんpは名前を忘れてしまったがとてもインパクトのある声で引き込まれた。いい感じのバンドだった。その中で打ち合わせと順番が変更されていたが ホリケンさんに紹介され1曲だけど唄った。ゲストって気持ちいいなあ。その後ホトケさんが到着した。いい顔色だった。「トリちゃん少し飲んじゃったよ」と俺に話したが これで演奏はばっちりと思ったよ。ホトケさんの相棒の秀ちゃんも身内の方が来ていていつもながらの音を出していた。北関東ツアーでは秀ちゃんというギタリストががホトケさんの相棒だ。ホトケさんとやるには精神的にも大変だろう。でも彼はスタンバイOKで待機している。秀ちゃんのためにも北関東ツアーは継続していきたいと思っている。


打ち上げは 美人もホトケさんを取り囲み おっさんパワーの渦巻くホトケさんのライブから一息つけたのでは・・。そしてホトケさんが演奏している時 ホリケンさんが入口に佇み 何とも言えない笑顔をしていたこと。とても素敵だった。長い旅をしていた男の笑顔だった。





10月31日(月)
今日で10月も終わる。今月は法事が2つありどちらも遠出をした。私の伯父の奥さんの法事で親戚に連絡して仙台に出かけた。老衰という自宅での静かな幕の閉じ方をなされ、病院への入院を頑なに拒み 家族の親身のお世話により自宅で亡くなられた。伯父の涙の挨拶にこの寄居を離れ仙台でのお二人の暮らしぶり そして愛情にしみじみとした。伯父が私に連絡を直接寄こしそのこともありがたかった。伯父は20年前私の父が死んでから 何かにつけ私を励まし応援してくれた。そのことに恩返しもしたかった。時より時間を見て一人になった伯父を訪ねていきたい。


気分転換に何かをしようということはない。母の病気を受け入れての生活が静かに始まったからだ。音楽も続けるだろうし 釣りもしていく。自分の中で削ぎ落としたものだけが 手のひらに
ある。会いたい人だけに会いたい。




10月16日(日)

トンボ公園音楽祭が中止になった。昨夜からの雨で 会場の男衾トンボの里広場は泥濘が
増してしまった。幹事さんがこの日に備え草刈をしまた当日の役割分担を決め準備していた。
出演者に一昨日中止の連絡をしたのだが 心苦しかった。どたんばの中止決定にならないで済んだのも仮屋代表の英断だと思う。一人で代表は黙々と各公園の整備をしている。この代表の下 トンボ公園は確実に整備されきれいになりトンボ復活の環境も整ってきている。


昨夜私が看病に行ったとき、母はとても痛そうで言葉が出ないため苦痛にゆがむ顔をして呻いて私に訴えた。身体を摩りながら調べてみると動かない右肩に大きな内出血をした後があった。
どこでぶつけたのだろう?動かないといっても痛い感覚はある。それが 母は言葉が出ないため呻いて私に伝えた。時間でくる看護士看護助手の人たちにはわからなかったのか!
この病気は本当に辛い。こんな母を見つめていると「何でこんなことに・・」と繰り返し繰り返し
思ってしまう。


母の手を私の頬にあてる。スキンシップだけの会話だ。目と目をかわす会話だ。
諦観と絶望とその狭間に母は思っている。呻くような泣き声で 絶望感が伝わり家族の心が引き裂かれる。
希望をと家族が語っても 今はまだ空しい。76歳の年齢の母に これからもっと頑張ってと話し続けるだろうが 母の努力、エネルギーは とてつもなく大きい。食事が中止になり私は落胆してしまった。内臓も麻痺をしているため 排出が難しく尿道感染になってしまったため 点滴で抗生剤と栄養、水分を補給している。


隣のオバアサンは頭に穴を開けて水を抜いた手術を受けた。脳からの出血がまだ続きベッドの備えられた袋に多くの血が溜まっている。でも表情は穏やかで家族と話ている。付き添う娘さんは
とてもとても熱心に敬虔に看病をしている。とにかくすごい。溢れるほどの愛を与えている。
私の母にもときより話しかけてくれる。高齢だからとお医者さんは言っても一部の可能性に掛けたいと話していた。もっとよくなるように もっとよくなるようにと。




10月11日(火)
連休が終わった。知り合いの人にいろいろあり 頭悩ませた日々だった。
昨日は半日母の看病で一人病院に詰めたが して欲しくない して欲しいという意思表示がはっきりするようになり 喜びもあるが驚くことも多い。



遠い空 アメリカの友人SHIBAの私たちへの思いに熱くなる。


9月24日(土)
巷では連休で行楽地が賑わっている。病院の中は休みゆえ家族が病院の代わりに看病に精を出している。母も実際には転院して1週間なのに3日間の病院での治療(リハビリを含む)しか受けていない。動かさないと少しでも筋肉の硬直が起きる。それゆえ家族は頑張っている。
はっきり言って連休が怖い。


以前は 様々なことが振り分けて出来たように思う。しかし今は仕事と看病で精一杯。
信頼するスタッフがいることが 何よりも落ち着く。仕事場が荒れていたらそれこそ崩れていってしまう気がする。20年の月日で得たスタッフだと思っている。


LOVE BONEも活動停止している。メンバーの一人いっちゃんだけが元気にプレーしている。
このバンドの絆はあるゆえ 再開はもう少し待ってください。


9月20日(火)
脳梗塞:本当に怖い病気だ。元気だったのにという言葉が繰り返される。同じ病室の看病している人達も 皆さんそのように話される。
母の場合、血液検査など何一つ問題がないと医者から言われていた。突然と襲うこの病気は とにもかくにも本人が辛い。動かなくなった手、足そして声・・。時間の経過によりそしてリハビリの努力により 回復が決まる。リハビリのプランを
病院側は家族の意見を取り入れ立てていく。自宅介護に向けてどのくらいの回復を望むのかと病院側から聞かれたが とても答えられない。元に戻るならとしか言えない。
昨日母は親しい人のお見舞いに 声を絞るように泣いた。生かされた右脳の感情がほとばしったのだろうか。ただその人が帰った後 けろっとした表情で遠くを見つめていた。


知性を司る左脳が梗塞してしまったため これから母の揺れ動く感情にどう対処するのか・・。
私が受け止めていくのは当然だが 家内がその起伏の大きさに疲れないように支えることも大切だ。


9月5日
モンゴルへの旅
              
モンゴルから帰ってきて3週間が過ぎた。頭の中はまだ整理できていない。ただモンゴルに帰った友人達との再会、モンゴルの友人達の兄弟との出会いそして一緒に同行した人たちのことは 心に深く残っている。時間が経てば彼ら、先輩たちと共有した日々は私にとって良い想い出になるだろう。この旅は始めの3日間はウランバトールでの日々。後半は草原の国の2日間だった。

ウランバトールの空港に着いたのは夜の10時を過ぎていた。生暖かい風が吹き モンゴルの友人達の出迎えがあり我々一行は車でホテルへ向かった。夜中なのに 道路に多くの人達が立っていて ヒッチハイクをしているようだった。私はこの時点で奇妙な気持ちになった。草原の国モンゴルというイメージではなく それはモンゴルの今の現状と向き合ったのだ。沿道にはゲルとバラックのような建物が犇めき合っていた。運転をしてくれているモンゴルの友人に「あそこに住んでいる彼らは何をしているの?」と尋ねたが日本語が得意でない青年だったので 彼から説明を聞くことは出来なかった。夜空に火力発電所の炎、白夜に醸し出される煙・・。


穴だらけの主要道路。空港からの道路ゆえ整備がされているはずだが 実際は穴だらけでその補修工事も行われていなかった。徐々にモンゴルの首都ウランバトールの現状が見えてきた。しかしその日は遅くなっていたので 外の車の騒音そしてかすかに聞こえる喧騒のなかで眠りに落ちた。翌朝 散歩に出かけた。ホテルのフロントで「川はありますか」とたどたどしい英語で尋ねたが 「とにかく遠い」という答えが返ってきた。実際、釣り好きの私は モンゴルの川に挑戦すべく2本の竿を持ってきた。そこで釣りは諦め ホテルの外に出て見ると車の音と土ぼこりそして映画キューブリックのヘビメタルジャケットを思い浮かべるサイゴンの風景のような世界が目の前にあった。

通りにはレンガを積み上げて木枠でビルを建てている。そして少し車に乗れば道路の脇に昨夜見たゲルや自分で立てたような家が所狭しと犇めき合っていた。ウランバトールは去年言った人から空気が悪いと話されていたが、言われた通りの排気ガスと工場からの排煙の匂いだった。

仕事を調整し旅行前にスタッフが入院ということも起きて 何の準備もしていなかった自分。ただ川があれば糸を垂れたいと思っていた自分。旅前は開高健の本を読み漁った自分。待ち受けたウランバトールの空気が重く肩に圧し掛かるようになった。そのウランバトールのことを理解することは大変だった。ビッグバン型移行経済と評されるモンゴルの急激な経済、構造改革は貧困層の拡大という副作用を伴った。

豊かな生活は何なのか?というモンゴルの国の人たちの立場で価値観を踏まえないとアメリカ経済が日本にしたように、自然が破壊されてしまい、遊牧生活を送っている人達の「こころ」を奪ってしまうだろう。そして、数年前に エンフバヤル首相は「モンゴル独自の文化を破壊するのは私の欲することではないが、我々は生き残るために遊牧を捨てなければいけない」と語ったと言う。

韓国、中国の進出が垣間見られたが日本の援助は まだ見られていなくこの国は1989年の共産主義体制の崩壊後に起きた社会主義から資本主義への転換に戸惑っていた。その中で 本当の援助とは 今回の旅のリーダーである柴崎さんの会社のようにお金を援助するだけでなく モンゴルの若い人に技術を身につけさせそして彼らが自国で根を張りながら将来に向け動き出すことに援助することは とても大切なことだと思った。モンゴルの友達の会社は小さく始まったが これから自分を見失うことなく頑張ってくれることを願わずにはいられない。

この国で 医療、教育等の援助も大切なことだと思う。日本に比べ平均寿命は18歳くらい若い。2000年始めの時点で66歳。乳児の死亡率が高いのだろう。この医療面においても民間は各国との交流が重要だと思う。また首都ウランバトールではないと 医療サービスは受けにくい状況だとも聞いた。

ウランバトールで 物乞いの子供達が多く お金をせびられたりもした。子供達が教育を受けられない状況なのだろう。ただ大学への進学は高くそれが国家としての育成する急務であり 大学を出ないと就職は殆ど困難な状況だとモンゴルの友人は言った。

自然環境もモンゴルは今、ガンとゾドの被害が大きくなっている。ガンとは夏の雨が少なく草が育たないことで 実際草原では枯れた草花が多く見られた。また羽蟻の異常発生など今年は特に酷いと話していた。ゾドとは、冬の降雪により草が埋もれて放牧が困難になることである。モンゴル農牧省の情報によるとゾド被害で1999-2000年には240万頭(家畜の1割)2,000-2001年では340万頭の家畜が死に 被害総額では2年間で2300億トウルグ(約260億円)に上がっているとのことである。

そしてウランバトールから離れ モンゴルの自然の中に立っても とても頭は切り替えられなく 現実のモンゴルの世界に呻いてしまった。ただ ここにはトンボ公園で共に作業し 遊んだ仲間が居る。彼らも工業化を暗中模索しながら進むのだろう。だが彼らの優秀な頭脳、気配りは必ずこの国を引っ張っていく逸材だ。これからも 長く友情は育てて生きたい。応援したい。

帰る前日「母が大変なことになった」という連絡を受けた。私は危篤というように受け取ってしまい、うろたえてしまった。その私に モンゴルの友人達は「先生我慢してください」という言葉をかけ それは 私にとって深く感じ、ありがたかった。涙がこぼれた。

先日ドーギー君からメールを 頂いた。母への暖かい応援と新しく始まる事業に きっぱりと立ち向かう意志のあるメールだった。モンゴルの雲、草原、馬、・・私の心の中に そっとしまっている。

8月29日(月)
母が脳梗塞で倒れて2週間が過ぎた。面会時間を家内と分担して通っている。もちろん私の場合は仕事が終わってからだが。
母の症状は昨日看護師さんに言われたが、緩やかに表情が出てきている気がする。ただ言葉はない。
起きてしまったのだから、仕方がない。治る方向に向かって一緒に頑張ろうと語りかけている。
そして 一人ではないよ。これからは一緒に同じ方向に向かってやっていこうね。
時折 母は何でこんな風になったのかと苦渋の表情を浮かべる。眉間に皺を寄せて私の手を
動く左手で握り締める。そして左足をベッドの柵を越えるかのようにばたばた動かす。
堪らなくなるが これからはいつも一緒だよと話しかける。


本当に長い2週間だった。私の脳も混乱したが整理が出来るようになりつつある。
母に「明日も仕事だから 帰るね。仕事が終わったらまた 来るね」と語った時 うんと頷いた。
はっきりしないものも多いが 私には分かることが多い。見えない世界言葉では通じない世界。母と心だけで会話している。



母の病気
母が脳梗塞で倒れ入院した。生活が一辺した。母の回復に向けての生活が始まった。
会うたびに涙がこぼれて仕方がない。母も何故こんな身体になったのかと、思っているだろう。
親戚の方々の労わりとともに 頑張らなければならない。
面会謝絶ゆえお見舞いは遠慮している。





8月4日(木)
今日は海釣りの予定でしたが どう考えても東京の集合場所の5時には行けないと 散々悩んだあげくキャンセルしてしまった。(とほほほ・・)高速道路の運転が自信がないからだが。
いろいろシーバスをゲットするため準備をしたのに。


それでは 多々良沼に行こうと思い朝6時半に出発した。群馬の千代田町を抜け〔この道は堀口さんのスタジオがあるので熟知)昭和町そして館林と抜け多々良沼に着いた。いやあ・・・。暑いこと暑いこと。800円の漁業料を払い桟橋で釣り出したのだが 桟橋が鉄板のため玉子焼き状態。帰ってからニュースを観ていると館林は関東1番の気温。ふうふうふう・・。風も無く凄い暑さだった。釣り人もわずか。子供も夏休みと言うのに一人も居ない。しかしその桟橋でもう釣りしか人生ないよという男が70センチ級の鯉を釣り上げた。それも立て続けに2匹。その嬉しそうな顔といったら・・・。ぶっこみで鈴をつけ待つ釣りだ。私がその側で釣っていたのだが鈴がりんりんなっていて掛かったと思っていた。
その男は木陰でのんびり昼寝をしており教えてあげた。


半日居たのだが多々良沼周囲を釣り歩き荒川に戻った。花園の川は濁りも取れ中学生が泳いでいた。実に気持ちが良さそうだった。私も川に浸かり涼を得た。川はやっぱりいい。




8月1日〔月)
今日から8月。昨日は恒例の新潟の海にでかけた。もう6年は続いている。鯨波海岸は穏やかで家族連れで賑わっていた。のんびりと6時間くらい海に漂っていた。薄曇りの天気はとても
快適だ。日焼けもほどほどで砂地も歩ける。ぎらぎらした太陽だと歩くことが出来ないほど砂も
熱くなる。道中関越を使ったのだが 去年の地震の爪あとがはっきり残っていた。六日町を過ぎた頃から 一方通行になり道路が波打っていた。周囲の家々は10ヶ月も経っているので 修繕されていたが もっと山奥では道路家々もまだまだ復旧に時間がかかっているとのこと。
この地で誰も考えなかった地震。そして復旧に向かって立ち上がって行くエネルギー。
これからのケアーにもっともっとマスコミは伝え国は動くべきだ。



7月29日〔金)

一人で赤城に向かう。フライの練習のため。秋からの湖でのトラウトへの挑戦に向けてだ。
車の不安はあるが 少しづつ解消している。もともとスピードを出すことは好きではないので
この程度の速度で充分だ。フライでバスを釣り上げる。当たりがいまいち難しい。


スタッフのチーフが入院してしまった。来週には退院の予定だと聞きほっとしている。しかし私のモンゴルの旅があるのでそれ以降に復帰する予定だ。長年責任感を持って頑張っている彼女との出会い。私は幸せものだと思っている。歯科医院のスタイル確立のために どれだけ助かったか。この仕事アカデミックにいろいろ評価されることは好まない。患者さんが知っている。それだけで充分だ。患者さんから患者さんに口コミで伝わる。開業以来看板は入口のみだ。


伯母が入院している。とても優しい伯母で心より心配している。祈っている。



7月22日(金)
昨日は 家内と野反湖に行ってきた。朝2時半出発。暗い中おんぼろ車が走る。エンジンは快調だ。5時半に野反湖に到着。周囲17キロのこの湖は国立公園の中にあり 美しい湖だ。
トラウトを狙うのでそれようのルアーを用意したが 余りにも大きいためいったい何処に投げて良いやら戸惑う。北の終点である場所には5,6人の人たちが居る。まるでヘラブナを狙っているようだ。帰りに立ち寄った尻やき温泉の女将に聞いたら謎が解けた。。さてさてその集まっている人たちの対岸に位置をし投げ続ける。2時間投げても当たりはない。魚は見える。
それから移動し 流れがあるところで腰から時には胸まで浸かり投げる。湖なのに波があり
時には転倒しそうになるが、この体重だ。負けはしない。しかし風が強くフライを投げてもラインが絡まり四苦八苦。水は相当に冷たい。ニッコウキスゲが咲き乱れている。とにかく美しい湖だ。当たりは一度も無かった。岩魚がこの湖にはいるのだが・・。釣るのは相当難しい。
さてその女将のいう話だと「野反湖はニジマスが湖を回遊しそのところに待って待って来たら
数匹釣れる」と。むむむむ・・早朝じっと待っていた人たちはそのポイントにいたということか・・。初めての湖での釣り。難しいものだ。
帰りに榛名湖に寄りボートを借りて釣りをした。小さなブラックバスが回遊していたが ボートを
上手く寄せることが出来ず 逃げてしまった。穏やかな天然クーラーの中。楽しい一日だった。



7月15日〔金〕
昨日は、仲の良い友達と渓流釣りに出かけた。あさ3時から準備をし 車に乗せてもらい
上野村を目指し出かけた。釣りは 早起きの私にとって3時だろうが4時だろうが苦にはならない。日航機の事故の村を通る。この村を通るのは2回目だが 現場は山奥深いところだ。


釣果は 芳しくなかったが気持ちの良い一日だった。今回はフライでの挑戦。しかし毛ばりが
まったく見えない。しかたなく目印をつけ釣りだす。小さな滝がいたるところにあり そこは絶好のポイントだ。しかし魚影は見えない。老眼になり仕掛けも大変だ。毛ばりの先端に小さな糸を通すリングがあるのだが それに通す糸も細く 見えない。昔祖母の裁縫で糸を通してあげたことなどを思い出す。「すれる」魚釣りにとっては嫌な言葉だ。魚が先行者や多くの釣り人のため仕掛けに慣れてしまっているということだ。バスは最たるものだ。何をやっても馬鹿にされているような気分になってしまう。そうか、そちらがそうならこれではどうか!!と気張ってみても何のこともない。


帰る道 3人で釣れる所に行こうね。と、いつもつぶやいている。でも楽しい。



7月9日(土)
3寒四温のような梅雨寒さだ。永島慎二先生の遺言で公表、葬儀,香典はなかったらしい。
先生の晩年の作品で 山頭火の世界がある。目は凍りついた世界を見つめたかのような作品だった。先生は鎌倉のお寺に眠られたという。いつかその墓に行きたい。


テロというものの無差別さは痛ましい。ほぼ同時刻に爆発があったが用意周到な計画に言葉がない。亡くなられた方々にご冥福を祈りたい。しかしアメリカ、スペインの次にイングランド。地下に潜っての犯行だが 少しの情報も得られなかったのか。
その曖昧さが今まで強者として
君臨した油断と生活の慣れなのでは・・。ぴりぴりする必要も「大仰には」ないと思うが、下から
地面から覗き込む視線とかけ離れていると思う。



7月8日(金)
海辺の恋
佐藤春夫の詩に小椋佳作曲をし30年前の冬、この曲をテーマ曲として「黄色い涙」は放映された。
今、この曲を聞いても鮮烈に新鮮に蘇る。痛さとともに。衛と二人で歩き回った阿佐ヶ谷を。
永島先生の原作を求めて歩いた日々を。昨日作品を手に取り 落涙してしまった。
何も心は変わっていない。憧れ、遠い風景ではない。このドラマに出会わなかったら 高円寺でホトケさんに出会うこともなかった。この時の2年は私の出発点だ。始まりだった。




7月6日(水)
私のこのHPの表紙の絵を頂いた永島慎二先生の死が今日公表されました。
慎んでご冥福を祈ります。先生・・先生・・・私は本当に先生を知って豊かな人生を与えられました。ありがとうございました。


 「漫画家残酷物語」「フーテン」など人生哲学的な作品で60年代から70年代にかけて若者に支持された漫画家、永島慎二(ながしま・しんじ、本名・真一=しんいち)さんが6月10日、心不全のため死去していたことが分かった。67歳。東京都杉並区の自宅で倒れているのを家族が発見し、搬送先の病院で亡くなった。葬儀は家族だけで行う予定。喪主は妻小百合(さゆり)さん。
 52年「さんしょのピリちゃん」で14歳でデビュー。61年の「漫画家残酷物語」は漫画に青春をかけた青年たちの姿を描いた。独特の感性でつづる私小説的な作風は熱烈な支持を得、教祖的存在となった。60年代は新宿でフーテン生活を続け、ライフワークとなる「フーテン」を生む。64年に虫プロに勤務し、テレビアニメの制作に携わる。67年から「柔道一直線」(梶原一騎原作)を途中まで手がけた。妥協しない生き方を貫き近年は寡作だった。72年「花いちもんめ」で小学館漫画賞、74年「漫画のおべんとう箱」で日本漫画家協会賞優秀賞を受賞。

(毎日新聞) - 7月6日11時35分更



7月4日〔月)
Bluesの神々が・・・・
日曜日のHideLightライブは最高に楽しかった。共演してくれた浩ちゃんの尽力で大勢のお客さん(実際立ち見までになった)がいらっしゃてくださった。古い知り合いであるメンバーのバンドー
ドミナントメジャー7thの演奏も良かった。自由な発想のもとで各自が好きなジャンルで音を出しサウンドを作っている。またホトケさんとのアンコールでのセッションは素晴らしかった。予定した曲ではなかったけど 初々しくよかったぜ。気持ちが篭っていた。エイジも。村田君も。
でも 疲れたろうな、浩ちゃん。そしてギターリストの茂樹は前々から思っていたが ダンディーな素敵な音を出していた。かっこよかったぜ。いつか一緒にバンドを組みたい男だ。



そしてホトケさん上村秀ちゃんの演奏は凄みがあり Bluesの神々が落ちてきた。私はPAに
やっきになっていたが 隣に座っていたお客さんが 唸っていた。「何て何て凄いんだと。」
このお客さんの心にBluesががしっと鷲づかみで入ったようだ。PAを懸命に操作していた私にも彼の唸りが腹に響き 感動した。
そして、ホトケさんのギタープレーも魂が入っていた。多くの若いお客さんとともにSHAREできたことはプロデュース冥利に尽きる。
来てくれたお客さんスタッフの仲間 いつもいつもありがとう。ありがとう。



7月2日(土)
生れ落ちた場所が 水が合ってたなんて思えない
幼いころから背丈以上の忙しさが両親にあり
子供がそんな両親の言うことを聴き いい子になるのも仕方がない
指相撲などの小さな世界が逃げる場所だった
ゆるり ゆるりと気持ちが苦しくなり外の世界に目が向いた


それから時が流れ 家を出た時 金子光晴山之口獏高田渡という詩人に会い
3年ふら付き子供が出来た


子供が自活出来る様になったが 心にある空白は日々募る
寿命がまだあるのならまだ生かせてもらえるなら
再び水の合う場所を求めて行きたい
しかし今は 一人ではない


それにしてもこの地で会いたくない人も増えたものだ


7月1日〔金〕
月変わりにしたいのですが、このような状態でお付き合いを。。


植木屋さんが2,3日前から入っている。父の代からだが最近植木屋さんの需要も少なくなっている。家というものは代々引き継がれるにしても 次の世代、時代が変わるごとに その仕事を取り巻く状況は変わり続け それを請け負うにはしんどいこともある。いや生理的に後に続くものへの引渡しは軽くしてやりたい。
私自身家に対しての執着感はない。それは18の頃家を出た気持ちが 根ざされているのだろう。子供が戻ってきたら私が家を出ようと思っている。仕事もあと10年だ。定期健診をもっともっと定着させ子供に手渡したいと思っている。
また住めば都である。

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