躁鬱病:鬱病は脳の分泌物いわゆる脳内神経ホルモンの低下から症状が引き出される。それはノルアドレナリン・セロトニンの低下ということが 有力視されている。その他に成長ホルモン、プロラクチンACTH(副腎皮質ホルモン)の関与は従来分かったことでありまたドーパミンの関与も関係していると言われ それぞれの低下を抑えるまたは上げるため患者さんに薬が処方されていく。その引き金をおこすことは各人たちの個人的なことに左右される。遺伝的なもの、生体内の変化 そしてストレスなど。ストレスは 結婚 病気 最愛なる人動物を失ったり大変多い。しかし今回は 遺伝的なものの重要性を 私は考えている。自分の身内の中で遡り考えてみたい。


祖父祖母まで遡り 身内にその傾向があるかどうかが重要だ。もし祖父にあったとしたら その子供は気質は半分は受け持つことになる。孫は4分の1受け持つことになる。すなわちその半分その4分の3はもう一つの血から(両親)受けつがれ中和されるが 気質として遺伝される。真面目すぎる性格。情緒過剰。親により完璧な子供になることを押さえ続けられた環境などによりそれが何年も過ぎ発病することがある。 先ほど述べたホルモンが中年期になり低下されることが多い。働き盛りにである。会社にとっても重要なポジションになってから起きることが多い。「こんなはずの 俺ではない」「何もかも楽しくない」そして夜眠れなくなり朝を恐れ始める。仕事があるのに眠れない。明日はどうなってしまうのだ。と悶絶のような状態になる。そのような状態を家族が察し病院に 一緒に連れて行って欲しい。ただ精神科はまだまだ敷居が高く行くことに拒絶する患者さんがいる。そこで安易に内科,かかり付け医に行く場合が多く
その医師が 精神科や心療内科を紹介してくれればいいが 安易に睡眠薬、抗不安剤などを投与されると何年もの間 この薬が合えばいいが中々そういうことも少なく 処方された薬に振り回されることになることが多い。私の場合は 紹介により大学の精神科を受診したが 大学病院でさえも その薬で治ると言い続けられたけど 辛くそれは地獄のような日々だった。


辛い病気である。谷川永一先生は父親がそうであったと書いている。また作家の開高健氏は一切の薬を拒否し 海外への旅を出版社に自ら紀行文を書くからと申し立て 『オーパー』など多くの釣りの話を書き 欝を自らの意思でうっちゃろうとした。開高氏は一切身内のこと、鬱病のことなどを書かなかったが 親友の谷川先生は 開高氏のエッセーの中にある僅かな文章を見つけている。これが会社勤めだと会社がケアーしてくれればいいが 同僚の目上司の目を気にし休むことすなわち休職になってしまうことが 本当に多い。この病気にとってとにかく大切なのは休むことに尽きる。ぼをっとしていることが大切だ。可能な限り眠れなくても 横になっているだけでいい。一方会社もいつまで休職をしてまた来てくれと対応はしてくれるが その期日が迫ってくると 治り掛けた脳も再度欝へと向かっていく。会社側も仕方がないのかもしれないが 今この時代多くの会社でも鬱病の人を抱えているはずだ。期限付きの休職だけでは どうにもならない。産業医を持っている大会社ならともかく本人任せであるとしたら とても危ない。休職の期日が迫り またせっかく治って来たこともありその僅かに上がったエネルギーが自殺に向かうことが何と多いことか。やっぱり会社に行けないと本人は諦めてしまうのだ。前回もこのシリーズで書いたが 本人の静かな怒りは内面から湧いてこそ 起き上がれるのである。それも最愛なる人の静かな接し方により。。会社側では多くの人材がいるため 切り捨てて代わりの人をそのポジションにつかせることなど 簡単だ。しかし病気の本人は『俺が今まで頑張ったのだから、俺しかいない」と思い込んでしまうケースが多い。


躁病。今回はこの躁病についても考えてみたい。躁病は周囲の人たちが困惑をしその変貌に驚く。しかし身内の方々も良く観察して欲しい。今まで抑えられた性格が大噴火をしているだけのことである。口に今まで出したことのない言葉も 饒舌のごとく話し続ける。多大なお金を浪費する。妄想なのだが 喋り続ける。落ち着きがない。などの状態になる。性的にも妄想することがあり ストーカーなどにも繋がることもある。所謂 恋愛妄想だ。この場合リチウムという薬が昔から使われてきた。いまではリーマス 製造製造会社名により違うがデパケンなどの薬が多い。しかし眠くなったり運転が出来なくなったりするため 本人が自ら飲まなくなるケースが多い。本人が病気に対する認識がないからだ。どこかで『自分はいつもの自分ではないな』と分かっていてもこの甘美な気分の高揚感に酔ってしまう。他人には まるでお酒に酔っているように見えるだろう。昔タモリの昼の番組で 有吉佐和子氏が電話のつながりのコーナーでほぼ喋りぱなしで 番組が終わってしまったこともあった。この時有吉氏は躁状態であったと言う。


身内のかたも 本当に苦しいけど 側に付き添い粘り強く話し一緒に病院に 連れて行って欲しい。浪費などまたは暴力などを起こさない様にも本人が『俺が決めたんだ』とどなり喚き甚だうんざりするほど嫌な状態でも この人は病気なのだからと心の中で決め 側に居続けてあげて欲しい。そして共に信頼する医師をさがすことだ。しかしこの躁の時 身近な大切な人に暴力を振るったり暴言を吐いたり またお金を貯金を降ろしどんどんあっというまに物を買ったりするため 最愛の人も困り果て疲れてしまい別れてしまうケースも多い。しかし躁病は数ヶ月で治まる。そして鬱に移行することもあるが寛解することもある。
参考に 中島らも氏の著書「心が雨漏りする日には」らもさんの躁鬱病の自らの体験が書かれている。これは周りの家族の方にお勧めしたい。なぜなら本人は 活字を読むことなど出来ない状態だからだ。多動的で落ち着きがないため 字が追えなくなってしまうからだ。
らも氏が素直に丁寧に自分の状況を語っている。普通は隠すことが多いのだが らも氏はこの病気について 多くの読者に治る病気だと言い続けている。


家族で支えきれない時 いろいろな支援センターがある。そこでお金は多少掛かるときもあるけど任せる方法もある。

鬱病第5部〔書きながら推敲しながら吐き出しています)
2008年に入り突然と首の痛み、異常なる肩こりが起こりだした。身体の変調が突然で起き(しかし家内はオーバーワークと言っていたなあ)その凝りと伴い 朝なんとも言えない嫌な気分になり始めた。相変わらずお酒は飲んでいたし、ただ友達に「酒の酔い方がおかしい」と指摘されていた。バンドでのいざこざや12月末から無理を押して ライブを続け また急にヘラブナ釣りが恋しくなり寒風の中出かけて一層の孤独感を味わっていた。厳寒の釣りはきびしい。だんだん私の大切な趣味が 重荷なってきて症状が如実に顔を出してきた。自暴自棄そんな感じにもなっていた。
それにも増して首、肩の凝りは異常になり また酒も逃れるように飲んでいた。そして酒を飲んで薬を飲むととんでもないことが起こる事態が起こり これは酒と薬の関係と直感し3週間前酒をまず断った。その後、2週間過ぎてから 血圧が上昇し仕事をしている時高血圧の症状が出て(ろれつが回らずらい、一人一人に説明するのが大変な重荷、頭痛)などのことが 出てきた。これには参った。体内の臓器がアルコール抜きにした時 そう簡単に元に戻れないのだろう。幾つもの大小の山が噴火して静まるのだろう。自分のしたことゆえ耐えられる。前向きにチャンネルを変えることは出切るが・・・・・。一筋縄ではいかないみたいだ。


今、脳は薬その上 血管系も薬という他力でのみ生かされて居る感がし 辛い。内科の先生神経科の先生そして鍼の先生に通うことは 労を惜しまず行っている。良くなりたいという願望が強いからだ。
家内と先日埼玉県出身者の大学の同窓会で 私はウーロン茶で過していたが仲のいい仲間が酔っていく姿は奇妙に映り、話している言葉など錐のように刺さってしまった。あちら側に居れば 私がはしゃいでいたろう。奇異なる風景だった。そして疲れ果てた。今まで経験したことのない世界だった。
酒を止めたのは とにもかくにも薬の飲み方を自分勝手に行った結果だ。
友達の医師から 短期型睡眠剤は 記憶が飛ぶという。今 やったことを傍から見ても普段と変わらないのに 当本人はすっかり忘れている。それぐらい怖いものだ。私は歯科医としては とにかく私の術技で治し薬の投薬は 殆どないため 薬における副作用を知識としてしか知らない。今は私自身のストレス、アルコール、薬を一から根本的に考えて行かなければいかない。
実際1月13日夜 もう少しで列車に 轢かれるところだったのだから。私は友人を偲ぶ会をやったあの夜 踏み切りを渡り〔覚えていない)渡りきったところで 列車が通った。記憶ではその音と列車の姿だけは くっきり覚えている。今思うとぞっとする。家内に話したら鳥肌が立ってしまった。あの踏み切りは家族の愛犬ジョンを始め多くの人が亡くなっている踏切だ。誰かが
後押ししてくれたのだろうか。・・・・。


そして3月ストレス病院に入院した。都内ではこういう病院が幾つか出来ている。この病院の生活は 始めは閉鎖的な気持ちになってしまったが 数日立つと入院している仲間といろいろな話をしたり外出許可を貰い図書館やら所沢の駅前を散策した。薬は必ず持たされた。そして看護師の人たちと沢山話しをした。映画の話音楽の話し運動の話しなど。大きな部屋で導引体操もした。朝になれば必ずラジオ体操をした。これは今でも続いている。ヨガも覚えた。
退院の条件で主治医に直ぐ仕事をするのではなく旅行に行くことを言われた。即高知に行くことを決め退院の足で飛行機に乗り家内と高知へと向かった。楽しい旅行だった。
振り返れば休息を覚えることであった。映画「眼鏡」も身に滲みて繰り返し観た。また知り合いに紹介をしてもらい素晴らしい整体士の先生にも出会えた。
私の生活を振りか得ることも出来また身体を動かすことでこころをコントロールすることを覚えたのは本当に良かった。今でも思い出す。一緒に入院していた仲間のことを。