第1部 私自身の鬱病について
『鬱病』
私自身この病に取り付かれ足掛け10年以上の歳月が流れている。ここ5年は 安定し治ったと思っていますが、この病気まだまだ安心出来ません。それは自分の気性 行動により再度ぶり返すこともあるからです。無理を強いられた時は特にですね。出来ないものは出来ない。と他人に話せばいいのですが 様々な人がいますので 時には我が儘ということで強く責められる事もあります。人間関係から生まれることが多い病気です。脳が複雑に感じる人間関係から疲労困憊してしまうのです。
「こんなはずではない」と自分のほうを責める。そんな時は、休めばいいのです。休んで通り過ぎる事を待てばいいのです。2,3日で何となく気分も立ち直ってきます。他人は無責任と思うかも知れません。仕方がないのです。よくこの病気を心の病と言います。しかし心とは何処にあるのでしょう?精神論で解決できないのです。大鉈の精神論で言われるとこの病気は悪化していきます。もっともっと深みに入ってしまいます。


心は脳にあるのです。。鬱病は感情 知性、判断力などを司る脳の回路が上手く回らなくなったのです。脳の解明はまだまだこれだけ発達した医学でも未知の部分が多いです。最近ベストセラーになった『バカの壁』の作者は脳の解剖学者です。ゆえにその視点から書かれた内容は わかりやすかったのだと思います。それが精神論になり 気持ちをしっかり持ってとか励まされる。鬱病の時 とても受けいられない言葉です。鬱のひとに 決して言わないでください。話を聞いて うなづいて上げてください。そして治癒に向かう時 本人が自分自身に対し 静かに怒りが生まれます。それも自然にその人が自分で立ち上がるように 脳は静かにゆっくり動き出します。それはうす皮を剥くように動いていきます。三寒四温と言う言葉のように行きつつ戻りつつ治っていきます。その期間は辛いですね。風邪のようにぱっと熱が下がらないのですから・・・。


充分な休養と精神科の治療の後ですね。この動き出す時間のペースは 競争社会の現代では職種によってもそして周囲の人達との環境によっても異なるでしょう。出世を含む欲望の世界 勝ち組負け組みなどとつまらない判断で区分けされる社会では 時間がかかると思います。


今乗って走っている電車から降りて 休憩する。その時間を社会でも認めてあげることも大切なことだと思います。


貴方の大切な人が心の風邪を引いた時 何度も繰り返しますが 是非専門の病院に一緒に付き添ってあげてください。そして脳が潤滑に動く薬を処方されることが最初の治癒に向けての一歩です。大好きだった中島らも氏も著作の中でこの病気について書いています。らもさんが医者から鬱病に罹った時 処方された薬で気分のへこみが治ったと驚いています。初めは薬も中々合わないこともあるでしょう。悶々とすることもあるでしょう。焦ることもあるでしょう。しかしその時の状態を主治医とともにゆっくり歩いて行きましょう。主治医が精神科の医師でない場合適切な処方がされていないこともあると思います。精神科の敷居は高く感じるでしょう。狭い待合室で 多くの同じような患者さんがいたりする待合室は、重い気分になります。それだけで参ってしまうこともあるでしょう。でも内科の病院にいっている気持ちになって脳という器官を治すという気持ちになってください。そこに心許せる人が一緒にいれば 何と心強いでしょう。誰か一人でも 自分の鬱陶しい気持ちを 話すことも大切です。家族だけでなくても。


性格について:真面目な人、人の評価を気にする人、人前で演じる人・・・。タイプ的に言えばそんな人がこの病気にかかると言われています。クレッチマーという人は循環気質として1、人付き合いが良く気が良い。親切で親しみやすい。2、朗らかでユーモアがある。元気で激しやすい。3、静かで落ち着いている。物事を苦にする。感じやすい。1が基調にあって2を伴う人は躁に傾きやすく、鬱に傾きやすい人は 3を伴うと言われています。責任感、几帳面も病気になる前の素養とも言われていますがしかし どう考えてもこのような人が自己放棄のような症状になるということは何とも大変なことです。血液型からいえばA型とB型が混入しているかのようです。それではAB型の人が・・?そうでもないのです。私自身はB型です。B型のユーモラスの表情が曇りだした時 自分はいったいなんなんだと根底からの疑問も生じるでしょう。ぱっと思いつきで風呂敷を広げ人と約束してしまい、その約束に汲々になってしまう。私にも よくあることです。


薬と私の治療体験について
初めて処方された薬が 脳に辿り着いた時 実際はとにかくいろいろ考えることを 中断する
薬ゆえ ぼおっとしだした。塩酸ノルトルプチリン系のトリプタノール。抗不安剤のソラナックス
睡眠薬のレンドルミン。10月から翌年8月まで続いた。その時の状態は とにかく苦しかった。
大学病院から都内の医院に移り(大学病院の先生が辞めたため)薬は変わることなく続いた。
季節感を取り戻すことが出来なかった。こんな俺は俺ではないと叫び続けた。毎日の仕事の量は極端に減らしたが 精一杯の仕事だった。大学病院でのH先生に必ず治る、トンネルは潜り抜けると言われたが 自分としては益々深みに入っていく感じがし、焦燥感、孤独感、も深まり
どうにも出来なくなって行く気がしていた。(今振り返るとこの薬の処方が間違っていたということもないが 脳が正しく治るというすなわちカテコールアミン代謝が正常に戻るということは大変難しい)私の患者さんに『先生 いつまでも待っているから よく休んでくれ』という言葉に どんなに励まされたことか。。仕事にとにかく戻りたかった。それだけだった。

気晴らしに好きなゴルフの練習にも行ってみたが「なんてつまらないのだろう」とため息がでてすごすご帰ったこともあった。ただでさえこの病気はエネルギーが無くなっているのだからスポーツなどはとても無理だ。気休めの散歩でさえ。そして大好きな音楽さえも全く反応がしなくなった。聞いても聞いても何も感じられない。あれほど好きだったオーティスレディングさえも 響かなくなっていた。
映画もとにかく画面は動いているという感覚・・。悲しかった。叫びたかった。壁に頭を打ち続けた。


都内の病院に通っている時真夏の焦げるような暑さに溶かしてもらいたかった。今でも
あの商店街は目に焼きついている。本は読み漁った。藁をも掴む気分で。病気の本はとにかく読んだ。しかし専門的な本の言葉には反応することはなく唯一谷沢永一氏の「人間「うつ」でも生きられる」(平成10年9月講談社発行)繰り返し繰り返し読んだ。その本は著者が鬱病に陥っての体験からの本で親友の開高健氏の鬱病の話も出ていて食い入るように読んだ。谷沢先生、開高健氏の戦いは共鳴した。開高氏は薬に頼ることなくその症状が出た時じっと耐え 釣りに向かうことによりうっちゃろうとしたことなど。谷沢先生は一つの本が出来ると脳が機能停止するように病気に陥り大学病院、開業医に通い 治療を積極的に受けた。この二人の病気にたいする取り組みは心に響いた。それは自分の中の葛藤そのものだった。薬に頼りたくないしかし現実は薬によって治りたい・・。開高氏の鬱病についての言葉を谷沢先生が紹介している。「私は干潟のようであった。無気力、たい落、茫漠、朦朧が全身を占め、書かず、読まず。・・・」あれだけの行動を世間に現した開高氏の言葉には 共鳴した。そして論客谷沢先生の言葉も。


そのころ私には歯科医師会の支部長の仕事があった。しかし会に出向くことはとても出来なかった。病名も明かさなかった。だが会長の岩田先生の暖かい心配りがいつでも感じられた。中島専務の補ってくれる優しさがあったことも。この人の温度気配りは症状が悪化しているとき よくわかるものだ。高圧的に全ての人が感じらるようになっているのだから・・。その復帰が病気との決別ともぼんやり思っていた。歯科医師会への復帰はまず自分の仕事が安定してからと決めていた。会には代わりの人がいるということも言われていた。


そして通院していた都内の先生にある日「そんな状態で よく仕事が出来ますね」と言われ呆然とした。家内は診察室に一緒にいたので その言葉に憤ってしまった。私がひどい状態でも仕事だけは続けていたことを知っていたからだろう。崖から突き落とされたような言葉だった。この医師との診察室での会話は大変難しい。患者さんは明日にでも軽快になる薬を心から求めている。そして医師にいつも問いただす。「トンネルは抜けますか、以前の自分に戻れますか」と。しかし医師の診察も2週間分の薬の処方ため 患者さんも2週間の自分の状態を話す。しかしこの会話は難しかった。
「まだ前向きになれない。明るくなれない。以前の自分を取り戻せない・・」そんなことしか医師に伝えることが出来なかった。すなわち全てマイナスのことだけだ。そこに家内が付き添い言葉を補ってくれる。私自身日記のようにまとめていくのだが 5分くらいの話ではどうにもならないといつも諦めていた。ただ薬を早く治るものに変えてくれと期待し念願していた。ウッディーアレンの映画にセラピストという職業が良く出ている。心理療法だ。2時間くらい話を聞き方向性を見出していくのだろう。ただ私の場合はそれは求めなかった。医師の治療に委ねていて
そのほうにはエネルギーは向かわなかったのだろう。


その医師に言われたこと「そんな状態で 良く仕事が出来ますね」と言われた事により 家内が立ち上がり 始めに通った医師に電話をしS医大の教授を紹介していただいた。この出会いで私の病気は快方に向かうのだった。


S大学病院のH教授は 温厚な感じで始めから印象が良かった。私自身この時は自分の身体自分の気持ちがどうにもならなくなり 身を捨てたような心境だった。家内にひっぱられていったという状態だった。待合室は少し離れたところにあり 内科外来の角にあり 大勢の患者さんがいたが待合室の広さが ほっとできる感じで、順番を待った。名前を呼ばれ診察室に入った。H先生はとても物静かな口調で私の話しにうなづいて聞いてくれた。今まで飲んでいた薬の話になり私は思い切って「「SSRI- ルボックス 」という薬が飲んでみたいと話した。先生は始め驚いたような顔をされた。何故その薬の名前をしっているのだろうかと思ったのだろう。この薬は アメリカなどでは最近使われている薬で日本では 広く使われていない薬だったからだ。
でもこのまま今の薬では何一つ光が見えなくまた好転するとは思っていなかった。私も懸命に振り絞るようにお願いした。しばらく先生は考えていたが「わかりました。そのお薬を処方しましょう」と言ってくれた。薬を貰い その日からその薬とのお付き合いが始まった。始めは脳がキックされたようになり かなり慌てた。先生は火曜水曜しか外来には出ない。今こんな感じなのですがと電話すると看護婦さんが丁寧に応対してくれ 次の診察日まで何とかこの変化に耐えた。


1月経過してからだろうか・・。段々気持ちが明るくなり前向きな気持ちが戻ってきた。自分の
診療所の経理なども見直し始めた。3ヶ月4ヶ月過ぎるとと自分でも自覚できるように回復してきた。気持ちが明るくなった。何も感じなかった季節感が心に入りだした。
側に付き添っていた家内も 嬉しかったろう。ただ無理はしないでとゆっくり話し続けてくれた。
その後の行動ではまず夜の会議には出ないこと。(歯科医師会の月一回の例会、トンボ公園の幹事会のみは続けた。これは5年経過した今でも続けているがたまに休むこともある))ふるさと懇話会、あらかわめっせの会議他の会議は全て欠席している。今、合併問題で連日連夜仲間が集まっているが もし私が出ていたらこの性分でもあり再び病気が襲ってくるだろう。まず仕事があってのこと。仕事さえ失うこともこの病気は持っている。緊張感がある私の仕事は脳の疲れが多い。結果が即要求されるし痛みも早いうちにとらないといけない。口腔内の痛みは激烈だからだ。そして噛むということを安心して与えて帰さなければならない。


足掛け6年飲んだ薬も 先月から止めている。H先生にも『飲んでも飲まなくても良い』と言われたからだ。ただあの暗黒の世界に戻りたくない!人間として喜び笑いという素晴らしい機能を失いたくないという思いがあり中々切れないでいた。しかし車の運転に支障を来たしているので止めた。その結果はやはり副作用だったのか運転が出来るようなった。


この体験したことは脳の記憶としてはっきり今でも存在している。落ちついて書けるのもその証だろう。
ルボックスという薬で快方に向かったのだと思うが もっともっと複合的に治って行ったのだと思う。家族の愛情 友情 仕事への愛情があったことは忘れてはいけない。この仕事の愛情から責任感が 静かに出てきて「いつまでこんなことをしていて どうするんだ」と自分を立たせたこと。静かな怒りが自分にゆっくりあらわれたこと。感謝するしかない。また その前までに飲んだ三環抗うつ剤で徐々にカテコールの分泌が治って行ったのかも知れない。


1昨年大学の朋友が自ら死を選んでしまった。辛い出来事だった。同じ釜の飯を食べた6年間の朋がだ。痛いほど苦しんだと思う。残された周りの人達は ただただ呆然とした。家族も重い十字架を背負い歩きつづけていくのだろうか?それゆえそれだから死を選んではいけない。死で無になるのではない。多くの人達と縁があり絆がありそれを断ち切ってしまうと片方の糸を持っている人達はどうにもならなくなってしまう。その人達が自らを責めてしまう。私もこの病気のことを書いたのも彼の家族に会い 無念の気持ちもあってのことだ。治るということを 伝えたかった。