高校三年の冬、NHKテレビで『黄色い涙』が放映 された。閉塞感の毎日、何をしたら良いのか、自分の 色はと・・・窒息するような毎日だった。このドラマは私の頭の上に青空がぽか〜んと広がらせてくれ、しいては、私を中央線への旅へと向かわせた。

 家出同然の東京の生活が始まり、高円寺、阿佐ヶ谷を毎日 ぶらついた。押しつぶされる事も何度もあったけど、恋人の瑛子と 『POEM』 『吐夢』『ホルモン屋』『屋台』と陽だまりを求め続けた。

このドラマの原作の『若者たち』の、栄ちゃんを演じる森本レオさんのように、黄色い涙を、涙した気がする、私の自立への始まりだった。
恋人瑛子との距離は私にとってあまりにも遠く、たまに会えれば私の孤を埋めるための代償を彼女に求めたが、所詮、無理な事だった。あの時の1年半は、10年もの時間が流れたのかもしれない。悲しい目をして日々高円寺の小さな商店街をうろつき回った。
高円寺吾妻通り、阿佐ヶ谷北口のPoemを含む通り・そしてSHIBAの住む吉祥寺中道通り・・阿佐ヶ谷のホルモン焼き屋のおじさんの淡々とした仕事ぶりを眺めお銚子を追加して見知らぬ隣のお客と、ぼそぼそと話したりしたことは、当時の、あまりにも淋しかった気持ちのをやんわり癒してくた。故郷喪失の感があった。今私が東京にいっても、そこに行くのは私が辛辣に生きていた証を欲しかったのだろう。「若者たち」の栄ちゃんのように、たまに訪れた高校時代の友達と徒党を組み歩いた事、語り合った事、そして別々の道に別れた事は漫画のストーリーのようだった。親との絆がそれぞれの肩に大きくのしかかり、私は東京の片隅にしか、生きられなかった。高円寺、信濃町、祖師谷大蔵と引っ越した。祖師谷大蔵では牛乳屋さんの屋根裏だった。
しかし、それは後になれば輝くほど大切な時間だった。黄色い涙・・甘い生活だったが、その時代しか流せない涙だった。

小学校の頃は、山の分校のような学校だった。それは、故郷の原形でもあり、そこから旅だった多くの子供たちが50歳を過ぎ、今は日本中そして世界にも住んでいる。お互いの住む距離は離れ、しかし、故郷に帰れば、無邪気なこの世界に戻る。今を認めている人、受け入れている人が、集まる事が出来る気がする。
それから、中学になると当時は活気があった街の小学校の子供たちと一緒になった。彼らの一人から話す態度、言葉が、上から見下ろすようにからかわれ、純粋であればあるほど、馬鹿にされた。何を言っても、踏みにじられる気持ちになった。相手は斜にかまえ、こちらが剥きになれば、剥きになるほど、馬鹿にされた。気が弱かったのかもしれない。しかし、今までそういう人間は、いなかったゆえどう対処していいのかわからなかったのだろう。耐え続けた。そして、その男を殴ったのは東京に出る前日だった。6年もからかわれてのことだ。


高校時代、覚えているのは学校に行くたびに目の前が白く霞を帯びたようになったことだ。毎日毎日目を擦ったが、消えることはなかった。中学の頃の緊張した日々から開放されたこともあったのだろう。不思議な現象だった。しかし音楽にのめり込んでいるうちに、目の前がクリアーになっていった。自分の何かが、変わっていった。内面が開放されていったような。その頃の熊谷は面白い町になっていた。木偶院堂やファンキーやらわくわくするスペースが生まれていた。そして東京もJIROKICHIを始め今も健在なお店がこの頃オープンした。



映画黄色い涙が上映された。銀河テレビ小説でも脚本を書いた市川森一氏がこの映画も書かれた。あのころより道をし SHIBAと歩きまっわた阿佐ヶ谷。32年経って ここ寄居で当時、永福町でお寿司屋さんを営んでいたみやちゃんとこの銀河小説のドラマを語り合う時 その瞬間にこの時代が蘇る。互いに違う場で食い入るように観た二人だが いつでも会えば楽しい時間に包まれる。不思議な縁だ。あの頃の自分を なじるように言われたこともある。迷惑だったということと親に何て気苦労させたかとも。
言われても仕方がないが 今の自分にはあの1年半は多くの人を巻き込んだのも確かだ。申し訳ない。しかしあのころホトケさんを知り 渡さんを知り GWANさんを知り・・・今でも多くの財産が私の中に出来た。最近黄色い涙が映画化された。永島慎二先生は2005年お亡くなりになったが奥様から先生の遺品を頂戴された。