気の世界を知りそして分かるようになったのは、お亡くなりになった伊藤真愚先生との出会いでした。歯科の東洋医学会での先生のお話は、目から鱗が落ち、水を和紙が吸収するように入り込みました。先生の著書は多数ありますが、その中の「心と体の健康百科」を、中心にオフロードの人達と勉強しました。
歯科の場合、まずどんな人でも痛みに対する(治療)恐怖心があります。そのところから 気の世界からのアプローチが必要となります。
そして、食べるところを治す科ですので食の話を身近にすることが出来ます。その上に呼吸法、身体の歪み(噛み合わせと背骨、左右の噛みあわせのバランスなど)に対し治すことが必要となります。それは、東洋医学の中心の気の世界を患者さんと共に勉強しることが出来ます。そして、陰陽論、五行の哲学をを基本とし、学ぶことはとにかく面白いのです。みなさん気という字が使われている熟語思い出してください。天気、気遣い気配 気配り・・。本当に目に見えないものばかりです。。。
さて左の写真は、私が開設した東洋医学研究所です。今は、閉じましたが、新たにこのページで出発です。また歯科医院の中にあります。

     

11月3日から5日まで京都に行ってきました。
いろいろ目的はありましたが、仁和寺を訪れ、「黄帝内経」を、見ることも楽しみにしていました。しかし、寺の催し物が多くあり、見ることが出来ませんでした。受付の人も「黄帝内経」を知らなく、残念だったですが仁和寺を離れました。「黄帝内経」は、我が国の国宝に指定されている東洋医学のバイブルと言われている経典です。中国では、すでに失われた書籍が日本に現存しているのです。東洋医学は今から約四、五千前に中国で起こりました。日本には、仏教の伝来とともに、伝わりました。本当に古い話です。そして聖徳太子が医学を学ばれ悲田院、敬田院等を建立され救済にあたったと言われています。聖徳太子は我が国に多大なる功績を残されましたが、医療にも覗われていたのです。法隆寺の釈迦如来坐像は聖徳太子がモデルとも言われ、この仏像は、背中に大きな光背を持っています。この光背が、その仏像の持つ気の大きさを表しています。宇治の平等院の阿弥陀如来像の光背も見事なものです。この両方の仏像の素晴らしさは筆舌に尽くしがたいものですね。さて、聖徳太子の時代から江戸時代まで脈々と我が国は東洋医学が、針、按摩、薬草などと術式は変化し成長し続いてきました。しかし、明治時代になり日本の医学は大きく変貌しました。

 

 

明治時代になりますと、社会体制が変わり、ドイツ医学が、主流になりました。
しかし東洋医学を振り返ってみると、日本では仏教と密接な関係を持ち、
成長してきました。鎌倉時代に道元、親鸞日蓮のような高僧の出現によって、
日本の仏教が革新的な発達をとげたと同じように、医学も医傑吉益東洞がでて、
ついに我が国の医術は、後漢の張仲景によって集められた『傷寒雑病論』による
医術に復興する事になったのです。

東洞がこの『傷寒論』を整理してその中から自分が実際に用いた漢方を記載した
『類じゅう方』は当時の大ベストセラーになって、またたく間に京都と江戸で数万部を売り尽くしたと記しています。

その後、第二次大戦後アメリカ医学が入ってきました。
いうなれば、現在の西洋医学です。
そして 第2時大戦後、東洋医学は地下に潜りました。ひどい話で、経絡というものがあります。 鍼灸師、気功師が用いる経穴の流れですが、経絡の基本となる経穴には本当に素晴らしい名称があります。百会、気海、合谷・・これらをナンバー付けにしようとさえ(進駐軍)したのです。しかし、進駐したアメリカの教授の反対のおかげで、今日まで残ったのです。(この教授の功績は多大です。)

真愚先生の講演で、先生が目の前に相手が手を振ったとき気が落ちている人は、至近距離を 非常に嫌がると話され実際に実験をしました。確かに自らが出す気のエリアが狭い人は驚く表情をしかつ困惑な表情にもなります。特に悩みに悩んでいる人は狭くなっています。 ゆえに、そっと接しないと拗らせてしまいます。ゆえに治療とすれば、ゆるやかな補気です。そして邪気を出す事です。
元気な人は、いっぱい気を出し、補っています。滞ると病気が生まれます。ています。私としては外気より内気を動かす 事をやります。すなわち導引です。内気はその人が持っている気です。それが、身体を周ればいいのです。 ついつい外気(他人から与えられる気)に頼ると怖い事が起こることもあります。 とにかく、自分の中から自然に動き出す事が大切と思っています。術者に寄りかかりすぎてはいけないのです。